万治くらぶ/第228号
万治くらぶ

第228号

2007/04/22 

▲万治なんでも雑記帖(69) アサギマダラの男 

 古本屋の棚をなにげなく見ていたら、篠山紀信の『シルクロード』(集英社)に目が止まった。

 全8巻のうちの第6巻「シリア・ヨルダン・イラク」(1982)である。

 この本のことは、以前、図書館で確かめて知っていた。

 箱入りの大型版の写真集、豪華本である。

 それなのに安かった。躊躇せず買った。

 「集英社の刊行物ご案内」には、≪奈良正倉院からローマ・ヴァチカンまで――壮大なシルクロードの全貌を捉えた篠山紀信、畢生の大作≫と説明がある。

 本の扉ページに プロデュース――志和池昭一郎  写真/文――篠山紀信 とある。

 そう、志和池昭一郎とは、永倉の「アサギマダラが好きだった男」に出てくるあの志和池である。(『屋根にのぼれば、吠えたくなって』に収録)

 台湾の遠東航空機で、向田邦子と一緒に墜落した志和池昭一郎である。

 『シルクロード』のことは「アサギマダラ…」のなかに出てくる。だから本を買ったのである。

 ≪志和池氏は、篠山紀信氏の写真集『シルクロード』のプロデューサーでもある。シルクロードはお手のものだった≫

 志和池は他に『アラビア半島』(76・国際PHP研究所)、『李朝の民画(上・下)』(82・講談社)の出版にも関係している。

 では、彼は出版関係者かというとそれだけでもない。

 永倉のエッセイによると何かの交渉にオマーンへ行っている。


 話はさかのぼる。

 永倉は、1971年に東京キッドを退団後、定職につかずチリ紙交換やビル清掃をしていた。

 しかし、いつまでもそんなことを続けていくわけにもいかず、不安定な日々を過ごしていた。

 そんなある日、銀座4丁目の交差点で偶然に中学時代からの友人S.I に出会った。

 話をしているうちに、友人は永倉にフリーならば自分のいる会社に来いと誘った。

 永倉は友人のいる「ハウス・オブ・ハウス・ジャパン」に出向き、そこでオーナーの志和池昭一郎に会った。

 志和池が30歳、永倉が25歳、1973年1月のことである。

 彼は永倉が気に入り、永倉は彼の壮大さに魅せられた。

 その日から永倉は彼の元で働くことになった。

 3月、志和池は自身2度目のオマーン行きに、語学力をかって永倉を通訳として連れて行った。

 このときの、永倉が有子夫人に書いた手紙が『万治クン』に載っている。

 ≪パリより、マスカット・オマーンに入国したのが二十二日朝。(略)交渉はうまくはかどり、これは秘密だが、話の中心がどうやら石油の利権の事になってきた。オマーンの黒幕からの指示で、明日、ベイルートでミスターXと会うことになった。まったくゴルゴ13みたいな感じなのだ。ボディーガードがなにげなくおり、四六時中、誰かに監視されている状態だ。冗談みたいだが、僕は秘密会談の通訳をやらかしてやった。そして、うまくいきそうなのだ≫

 ≪アラビアの氏族に招待され、パパイアの農園で、水浴とアラビア音楽のつどいを開いてもらった。(略)僕の大漁節は大好評だった。まったくもって最高だ≫

 宴の様子は『ブルータス』の「ベドウィンからの授かりもの。」(88.2.15号)にある。

 ≪砂漠の民、ベドウィンの族長たちは何かを待っている。マスカット・オマーン、1973年。ミッションと称する謎の日本人3人組と、彼らを宴に招待したアラブ商人も、ガラスのない素通しの窓辺に灯されたランプ越しに、陽の沈む地平線を眺めていた。(略)
 宴は御禁制の「ホワイト・ラベル」とウッド弾きの恋唄で熱を帯び、日本人にもお鉢が回ってきた。永倉万治は、ウッドでロックンロール、大漁節を歌いながら、族長たちに踊りを振付けた。(略)砂漠の民は、奇妙にミックスした日本人の宴会芸に感動した、らしい。ひとりが固くてよくしなるベドウィンの武器らしきものを彼に授けた。≫

 この時の宴会は大成功だったが、その後の交渉の結果が成功したかどうかは書かれていない。

 『屋根に……』には別のエピソードが出てくる。

 ≪ある時、二人でアラビアのオマーンに行った。砂漠に車を停めて、僕らは蝶々を採った。(略)
 「ナガクラ、もっと右!ほらっ、バカ……」 彼は大声で指示をする。
 あの時もケンカになりかけた。それでも僕は、捕虫網で名も知らない蝶を五匹捕まえた。
 彼は、それを大事そうに三角形の紙袋に入れながら、なんと涎を流しそうになった。
 本当に好きなんだな、と思った。アサギマダラという蝶が好きだともいっていた≫

 以下、『屋根に……』に出てくる志和池情報を記す。

 ≪志和池昭一郎は、昭和十七年に宮崎で生まれた≫

 ≪彼は、少年時代から独特の若様扱いされるような境遇で育ったような気配がある≫

 ≪目玉のギョロリとした、いかにもタダ者ではないという面構えの男だった≫

 ≪ケンカは上手だし、書画骨董の目が利くといったところがあった≫

 ≪志和池昭一郎は、プロデューサーだった。何のプロデューサーかといわれるとよくわからない≫

 ≪どういう後ろ盾があったのか詳しくは知らない。(略)彼の語る構想は常に壮大で「地球的な規模」といわないと気が済まないところがあった。
 「来週、ニューヨークでダリと会う」といい出したかと思うと、「砂漠の緑地化のプロジェクトの話でアラビアに行く」などと、会えば刺激的なことを必ずいい出す≫

 ≪人のマネのできないような手配やとんでもない人物との面会を手品のように実現する男だった≫

 ≪モンゴルにジンギス・カンの墓を探しにいく話や陶磁の道をたどって中央アジアを放浪していく旅行プランなど、得々と彼が話すのを聞くのが好きだった≫

 1981年、志和池は向田邦子を誘いシルクロードの旅をプロデュースする。この一行に永倉も同行の予定であった。

 ところが、旅行は旅行社への申込みの手違いでキャンセルとなり、台湾の美術館見学に日程が急遽変更となる。

 永倉は、志和池に頼まれた写真家入江泰吉の「大和路」のポスター展の準備で抜けられず、参加が出来なくなった。

 8月22日、二人を乗せた台湾の遠東航空機が空中爆発し、炎上墜落をした。

 この時の朝日新聞に志和池の写真と記事が載っている。

 ≪絹の道 ”火つけ役” 志和池昭一郎さん  向田邦子さんと取材旅行に同行した志和池昭一郎さん(38)は、シルクロードブームの火つけ役となった企画マン。出版関係者の間では、その道の権威だった。十年ほど前に妻の晴子さん(32)とともに東京都渋谷区に出版企画会社「ハウス・オブ・ハウス・ジャパン」を設立、ようやく軌道に乗ってきた。(以下略)≫

 志和池昭一郎はわずか38歳でこの世を去ったが、彼の人生は破天荒で、多くの人を巻き込んで怒涛のごとく世界を駆けめぐったものだった。

 永倉にとって、彼は太刀打ちできないほどのカリスマを持った人物であり、キッドの東由多加と双璧をなす存在である。

 とにもかくにも、志和池昭一郎は計り知れない魅力と実力を持った不思議な男であった。


  (付 記)

 本や新聞からの引用以外の志和池情報は、友人S.I からの教示による。彼には長時間にわたり詳細且つ具体的な話をいろいろ聞かせてもらった。大感謝である。今回書けなかった事柄は、後日まとめたいと思っている。それまでのご猶予を願いたい。


 挿図上は『篠山紀信 シルクロード 6 シリア・ヨルダン・イラク』(1982・集英社)の表紙。

 挿図中は『ブルータス』(88.2.15)「ベドウィンからの授かりもの」

 挿図下は『朝日新聞』(81.8.23)「遭難した邦人乗客」より。


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