田村さんに、私はお礼と以前「万治くらぶ」で『ウィンド』について書いたことをメールで送った。<「wind」の資料は、第212号に書いたとおり佐藤優君から貰ったものです。
佐藤君は私と同級生です。>佐藤・永倉両君は、高校の時の同級生であり、彼らは大学のとき同じ劇団むらさき仲間である。
社会に出てから二人は、しばし、同じ会社で働いたことがある。
≪永倉がキッドをやめて、ちり紙交換なんかをしたあとで、
僕も含めた立教の仲間と有限会社ユニオンヒープという会社をつくったのですが、
そこにひょっこり現れ、一応社員みたいな形で加わりました。
そこで『ビックコミック』の「異職キャリア」という1ページのコラムスタイルのインタビュー記事を書いたのが、
いわゆる原稿料をもらった最初ではないかと思います。
これは、前職というか、いまの職業になる前のことを聞き出すというもので、
たとえば、益田喜頓が札幌オーシャンズの元アマチュア野球の選手だったとか、
三上寛が元警察官だったとか、プロレスラーのミスター珍が何だったか?
そんな記事を僕も同行して一緒に取材して原稿を書きました≫(佐藤優のメール)永倉がマドラに入る前のことである。
日を空けず、田村さんから第2報のメールがきた。
≪佐藤優さんにはお目にかかったことがあります。
お会いしていませんが、風間研さんも高校か大学の同級生?と記憶しています。
『wind』に原稿を書いていただきましたし、頼み上手な長倉さんの押しで、
風間完さんにも挿絵をお願いしたことがあります。≫田村さんのメールに懐かしい名前がでてくる。
風間研さんは、劇団むらさきで永倉の一年先輩である。
永倉が欧州放浪の一人旅の途中で、フランスのブザンソンにいる先輩を訪ねたことがある。
その先輩が、フランス留学中の風間研である。(「万治くらぶ」第223号参照)
彼の父親が挿し絵画家で有名な風間完である。
永倉の『おけら』の表紙の絵は風間完の作品である。
マドラ時代に、もう挿絵をお願いしていたとは、永倉にはいつも驚かされる。
≪長倉さんは、人懐っこいというか、相手を警戒させず、
ひょいと相手の心に入ってしまう術を持っていましたから、人脈が広かったですね。≫まったく、田村さんのおしゃるとおりである。
田村さんは、「マドラ」社についても教えてくれている。
≪マドラという会社についてご説明させていただきます。
1970年設立と聞いていますが、天野祐吉さんなど博報堂出身者4〜5人でつくった広告制作会社です。
「wind」が終刊となり、長倉さんが辞め、私も出産で(そういえば、結婚式には長倉さんも来てくれました)
退職した1980年ごろに、天野さんは「広告批評」を創刊するためにマドラを離れ、マドラ出版を立ち上げられました。
マドラはマドラとマドラコミュニケーションズという2つに分かれ、結局3つの会社に細胞分裂したことになります。
昨年天野さんは亡くなり、「広告批評」も終刊。
マドラは社名を変え、マドラコミュニケーションズはそのままで現存しています。≫『広告批評』を出している会社と、永倉がいた会社とどういう関係なのかはっきりしなかったが、これでよくわかった。
永倉がいた頃は、マドラはひとつで、その後分裂したということになる。
≪長倉さんが在籍していた頃は広告需要が高く、業界も活気にあふれていました。
マドラも毎年12月、と記憶していますが、赤坂プリンスホテルでスポンサーを招いてパーティを開いていました。
飲食、歓談のほかに社員による余興も行われたのですが、おわかりだと思いますが、
その構成、演出はもちろん長倉さんの独壇場でした。
当時は、同業の人たちとの野球試合があったり
(長倉さんもたまにフラッと来てましたよ、ヨレヨレのコートで。あれが彼のおしゃれだと思いますが)、
仕事が終わると、みんなで朝まで飲んだり、そんなことが懐かしく思い出されます。≫ここでも、宴会プロデューサー永倉万治の真骨頂、面目躍如の大活躍である。
田村情報には感謝、感謝である。
再び、私は田村さんにメールをした。
(つづく)
写真上は 永倉万治『おけら』(1996・文藝春秋)の表紙(装幀 風間完)。写真下は 『広告批評』(1979.4・マドラ出版)0号の表紙。
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