万治くらぶ/第370号
万治くらぶ

第370号

2014/09/07

▲万治なんでも雑記帖(160) 田村情報(2) 2報は寝て待て

 田村さんに、私はお礼と以前「万治くらぶ」で『ウィンド』について書いたことをメールで送った。

 <「wind」の資料は、第212号に書いたとおり佐藤優君から貰ったものです。
  佐藤君は私と同級生です。>

 佐藤・永倉両君は、高校の時の同級生であり、彼らは大学のとき同じ劇団むらさき仲間である。

 社会に出てから二人は、しばし、同じ会社で働いたことがある。

 ≪永倉がキッドをやめて、ちり紙交換なんかをしたあとで、
  僕も含めた立教の仲間と有限会社ユニオンヒープという会社をつくったのですが、
  そこにひょっこり現れ、一応社員みたいな形で加わりました。
  そこで『ビックコミック』の「異職キャリア」という1ページのコラムスタイルのインタビュー記事を書いたのが、
  いわゆる原稿料をもらった最初ではないかと思います。
  これは、前職というか、いまの職業になる前のことを聞き出すというもので、
  たとえば、益田喜頓が札幌オーシャンズの元アマチュア野球の選手だったとか、
  三上寛が元警察官だったとか、プロレスラーのミスター珍が何だったか?
  そんな記事を僕も同行して一緒に取材して原稿を書きました≫(佐藤優のメール)

 永倉がマドラに入る前のことである。

 日を空けず、田村さんから第2報のメールがきた。

 ≪佐藤優さんにはお目にかかったことがあります。
  お会いしていませんが、風間研さんも高校か大学の同級生?と記憶しています。
  『wind』に原稿を書いていただきましたし、頼み上手な長倉さんの押しで、
  風間完さんにも挿絵をお願いしたことがあります。≫

 田村さんのメールに懐かしい名前がでてくる。

 風間研さんは、劇団むらさきで永倉の一年先輩である。

 永倉が欧州放浪の一人旅の途中で、フランスのブザンソンにいる先輩を訪ねたことがある。

 その先輩が、フランス留学中の風間研である。(「万治くらぶ」第223号参照)

 彼の父親が挿し絵画家で有名な風間完である。

 永倉の『おけら』の表紙の絵は風間完の作品である。

 マドラ時代に、もう挿絵をお願いしていたとは、永倉にはいつも驚かされる。

 ≪長倉さんは、人懐っこいというか、相手を警戒させず、
  ひょいと相手の心に入ってしまう術を持っていましたから、人脈が広かったですね。≫

 まったく、田村さんのおしゃるとおりである。

 田村さんは、「マドラ」社についても教えてくれている。

 ≪マドラという会社についてご説明させていただきます。
  1970年設立と聞いていますが、天野祐吉さんなど博報堂出身者4〜5人でつくった広告制作会社です。
  「wind」が終刊となり、長倉さんが辞め、私も出産で(そういえば、結婚式には長倉さんも来てくれました)
  退職した1980年ごろに、天野さんは「広告批評」を創刊するためにマドラを離れ、マドラ出版を立ち上げられました。
  マドラはマドラとマドラコミュニケーションズという2つに分かれ、結局3つの会社に細胞分裂したことになります。
  昨年天野さんは亡くなり、「広告批評」も終刊。
  マドラは社名を変え、マドラコミュニケーションズはそのままで現存しています。≫

 『広告批評』を出している会社と、永倉がいた会社とどういう関係なのかはっきりしなかったが、これでよくわかった。

 永倉がいた頃は、マドラはひとつで、その後分裂したということになる。

 ≪長倉さんが在籍していた頃は広告需要が高く、業界も活気にあふれていました。
  マドラも毎年12月、と記憶していますが、赤坂プリンスホテルでスポンサーを招いてパーティを開いていました。
  飲食、歓談のほかに社員による余興も行われたのですが、おわかりだと思いますが、
  その構成、演出はもちろん長倉さんの独壇場でした。
  当時は、同業の人たちとの野球試合があったり
  (長倉さんもたまにフラッと来てましたよ、ヨレヨレのコートで。あれが彼のおしゃれだと思いますが)、
  仕事が終わると、みんなで朝まで飲んだり、そんなことが懐かしく思い出されます。≫

 ここでも、宴会プロデューサー永倉万治の真骨頂、面目躍如の大活躍である。

 田村情報には感謝、感謝である。

 再び、私は田村さんにメールをした。

                   (つづく)



  写真上は 永倉万治『おけら』(1996・文藝春秋)の表紙(装幀 風間完)。

  写真下は 『広告批評』(1979.4・マドラ出版)0号の表紙。

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