万治くらぶ/第49号
万治くらぶ

第49号

2003/04/20 

▲万治なんでも雑記帖(15) 追悼・兄永倉萬治

 永倉万治のご両親から彼に関する資料をいただいた。

 そのなかに、妹の作家・釉木淑乃の追悼文があった。

 2000年10月12日の東京新聞・夕刊である。

 友人を通じて、ご本人の許可をいただいたので全文を掲載する。

 みなさん、どうもありがとう。こころよりお礼を申し上げます。


   追悼・兄永倉萬治   神様から贈られた明るさ   釉木淑乃

 永倉萬治の明るさは天才的です。


 右半身が不自由になってからは、深刻憂鬱になるのは無駄なエネルギーの消耗だといわんばかりに、本来の資質だけが磨かれていった気がします。もっとも意地は悪かったけど。

 ブスだの田舎者だのもっとひどい差別用語も平気で連発するし、一人の選手のミスで団体競技の試合が負けたときなど、おれならいつまでも忘れないでしつこくじくじく責めちゃうもんねぇと悪態をつきます。

 毒舌家と呼ぶには社会性に乏しく、そのくせやたらと人に好かれる。

 そんな得な性格は、もはや性格の域を越えて、ユーモアの神様から贈られた”明るさ”という才能だとしか考えられません。

 十月三日の夜、雑誌のグラビア撮影のために合気道のまねごとをしている最中に倒れ、人工呼吸器を装着したまま、一度も意識が戻ることなく兄は逝きました。

 でも十一年前の脳溢血で、声や目の反応がなくても本人はわかっているらしいと、私たちは学んでいます。

 だから元アングラ劇団の女優さんたちは「ナガクラさーん、行っちゃだめよぉ」と昔鍛えた発声法で朗々と呼びかけ、背筋をぴんとのばした合気道道場の方々は、道着のはかま姿でしゃきっと一礼してから兄のからだに気をいれてくださり、兄の小説にマリリン某として登場するアロマセラピストは、フローラル系のオイルで手足をマッサージしてくれ、そのたびに血圧計の数値はあがり、手足が、しかも十一年間麻痺していたほうの右手足がここぞとばかりに動くので、私たちは「わかってるよ」の合図だと思って嬉しくなるのです。

 お医者さんには一日持つかどうかと診断されましたが、心臓は丸二日間、脈打ちつづけ、その間に大勢の方たちが会いにきて、声をかけてくださいました。

 眼科病棟に入院中のみなさん(脳外科に空いている病室がなかったので)さぞやうるさかったことでしょう。

 この場を借りてお詫びいたします。すみませんでした。

 その夜、ベッドをとり囲んでいたのは、萬治の妻、二人の息子、妻の兄、私の五人。

 神経が高ぶってるせいか、くすくす笑いが止まりません。

 「うんこ食ってるときカレーの話はすんな!って」と次男がくすくす笑います。

 「お父さんの声が耳にこびりついて離れないよぉ!」

 「こんなことなら牡蠣フライと餃子三十個好きなだけ食べさせてあげれば良かった!」と妻も笑いながらむせます。「餃子十六個でやめさせちゃたから!」

 静まりかえった病棟の一室で、私たちはくすくす笑いながらそのときを待ちました。

 笑うことで、迎える覚悟ができていたのです。

 心電図の波動が直線に変わったとき、「この十一年間よく頑張ったね」と妻が頬をなぜました。

 「もう充分、ありがとう」「おやじ、来世でまた会おうぜ」と長男は手を握り、私たちは全員で「天国へ出発、おめでとう!」と拍手しました。

 魂は、この世に未練が残るような台詞をこちらが放つと、天国へのぼれないと聞きました。

 だから病院でも自宅でも斎場でも、見送りのことばしか口にしないよう心がけていたのだけれど、どうか一度だけ、本心を言わせてください。

 お兄ちゃん、あなたがいなくなって、すごく淋しい。


 (ゆうき・よしの=作家、永倉萬治氏の妹)

 *作家永倉萬治氏は、五日死去。五十二歳。


 新聞に掲載の写真は、軽井沢の別荘の室内の永倉萬治であるが、本文では兄妹二人の写真を使用した。
 写真は『文藝春秋』1992年10月号の「兄弟姉妹」より。(第45号に記載)

 釉木淑乃 略歴 (第15回すばる文学賞受賞作『予感』奥付より)

 ≪一九五五年十月三日埼玉県生。青山学院高等部卒業後、ミール・ロシア語研究所でロシア語を学ぶ。科学技術翻訳会社で露文タイピストとして働く傍ら、ツアーの添乗にも従事する。≫

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