万治くらぶ/第229号
万治くらぶ

第229号

2007/04/30 

▲作品探索(81) 『ブルータス』を探せ (Y)
              ― ジャン・コクトオを語る

 第220号で紹介した「ポワ―ル・ウィリアムに関する20点と70点の思い出」が掲載されている'85年11月1日号にもうひとつ永倉の文章がある。

 「軽みのエレガンス ジャン・コクトオ」 である。

 ”芸術の秋 伊達男の肖像”というコーナーのなかにある。

 コーナーには、月本裕の「物理学者は踊らない アインシュタイン」、奥村靫正の「光芒のパリ 藤田嗣治」など全部で5篇ある。それぞれ伊達男のこころを語っている。

 永倉はジャン・コクトオの2枚の写真をもとに彼の着こなしや生きた時代から彼の精神に目を凝らしている。

 ≪同時代(パリの1920年代)のダダイズムやシュールレアリズムの嵐が吹き荒れる中で、”社交界の道化師”あるいは単に”ペテン師”などと、二流のダダイストたちにののしられたコクトオだが、あくまでも彼は、古典や神話世界への回帰に、軽さやスピードを漂わせる伊達男ぶりにと、独自の生き方を貫いた≫

 ≪「芸術作品は、ほんのわずかでも苦心の痕を止めてはならない」とコクトオはいう≫

 ≪20年代の狂喜やポエジーを一身に背負い込んで走り抜けた多くの天才男や伊達男たちの中で”軽さ”と”おしゃれ”なら、コクトオの右に出る者はいない≫

 ≪狂喜と知性が、いっさいの”なんとなく”的無気力や戦意を失った怠惰を拒む、ジャン・コクトオの漂わせる”軽さのエレガンス”こそ、”イイ男”に求められる精神といえないだろうか≫

 この人物評は、永倉万治にとっては、チョッと異質なテーマを扱った文章である。

 文末の署名も ●永倉万治(ゴーストライター) となっており、自身のスタイルが完成される前の修業時代の作品ともいえる。

 いろいろな文章をこなしていきながら、かれの文体が確立していったのではないだろうか。

 その意味で、このエッセイは貴重な資料作品と言える。


 探索は続く。


 写真は文頭にあるジャン・コクトオの肖像。アーヴィング・ペン1948年撮影。(『BRUTUS』1985年11月1日号)


 ジャン・コクトーの略歴

ジャン・コクトー(Jean Cocteau、1889年7月5日 - 1963年10月11日)は、フランスの前衛芸術家。作家、詩人、劇作家として著名であるだけでなく、画家や脚本家、映画監督としての活動も行なった。自身は中でも「詩人」と呼ばれることを望んだという。多くの芸術家との交流があり、1916年にモンパルナスのカフェ「ラ・ロトンド」にピカソとそのガールフレンドのモデル、モイズ・キスリング、マックス・ジャコブ、モディリアーニ、マヌエル・オルティス・デ・ザラテ、アンリ=ピエール・ロシェ、マリー・ヴァシリエフ、美術評論家アンドレ・サルモンらと一堂に会し、この時にコクトーが撮った彼らの写真は著名である。しかし、ダダやシュルレアリスムと相互影響はあったと考えられるが、自身は直接は運動に参加せず、むしろ対立も多かった。彼の墓碑銘「私は君達を共に在る」。人とのつながり、友情に生きた彼らしい言葉である。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほかより作成)

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