永倉万治 年譜(54)
永倉万治 年譜(54)

永倉万治 年譜(54)・2000年

2010/11/21

   ☆ 2000年(平成12)・ 52 歳(小説家時代)

 【社会の動き】

 流 行:IT革命、おっはー、最高で金 最低でも金、Qちゃん、ジコチュー、めっちゃ悔し〜い、ユニクロ、プレイステーション2。

 ヤフーの店頭株が1億円突破(1月)、新潟で9年前誘拐・監禁の女性救出(1月)、東京株式市場で2年半ぶりに2万円台回復(2月)、地下鉄日比谷線電車が脱線・衝突、4人死亡、30人以上重軽傷(3月)、介護保険制度スタート 260万人が利用(4月)、ニューヨーク株式市場で過去最大の下げ幅記録(4月)、日産自動車が6千844億円の赤字発表(5月)
 そごうが民事再生法の適応を申請(7月)、2000円札発行(7月)、沖縄サミット(7月)、ロシア原子力潜水艦が北極圏で沈没、乗員118人全員死亡(8月)、BSデジタルの試験放送開始(9月)、シドニー五輪で高橋尚子が金メダル(9月)、確定拠出年金導入(10月)、長野県知事選で田中康夫当選(10月)、日経平均株価1万5千円割れ(10月)、旧石器ねつ造で藤森副理事長が謝罪(11月)イチロー外野手、大リーグ入り発表(11月)

 【生活 年譜】

  文芸事務所「三友社」から新聞小説の連載依頼があり、はりきって準備に入る。「ぼろぼろ三銃士」を4月から順次、全国の地方紙9紙に配信する。
  5月からは『小説現代』に「甘い水」を連載開始。作品は出版社の企画を取り入れた、いままでにない暗い色調を帯びた小説で、永倉万治の新境地を開く新しい挑戦となる。
  短編集の出版中止、オランダ行きの延期、東由多加の死亡というショックなこともあったが、志木の新居の工事が順調に進み、2作品の新連載がはじまり、単行本3冊『アルマジロの日々』、『人の気も知らないで』、『あぁ、結婚』が出版され、万治・有子の「家内制手工業」は11年目に突入し、ますます磨きがかかる。
  脳溢血からの奇跡の復活も順調にいき、少し油断したのか、グラビア撮影のため、準備運動もせずに合気道の稽古をはじめ、再び倒れる。意識が戻ることなく、10月5日、帰らぬ人となる。

  ≪「この(新聞)小説は長丁場になるよ。わが家の経済安定のためにも最低一年は続けたいところだ。それにはストーリー展開が重要になる。読者に飽きられたらおしまいだからな。お前にもアイデアをだしてほしいんだよ。(略)それともう一つ。新聞小説は初めてだから、ペース配分が不安なんだ。いまのうちにできるだけ書きためておくつもりだけど、連載が始まれば、そんなのあっという間だからな」≫作133『万治クン』p214
  ≪二〇〇〇年、夏。『ぼろぼろ三銃士』は順調に進み、『甘い水』も悪戦苦闘しながらだが、どうにか起動に乗ったところだ。風水で頭を悩ました新居の設計図も、ようやく永倉のOKが出て、いよいよ工事が始まった。(略)
  九月になった。志木の家の改築は順調に進み、アパート部分の取り壊しが終わって新しい骨組みができつつある。半月もすれば天窓のあるアーチ状の屋根がつくはずだ≫作133『万治クン』p211
  ≪(合気道の稽古風景の撮影は)本当はもっと早く撮影する予定が、装具で足をケガしてしまい、よりによっていちばん忙しい日と重なってしまったのだ。
  「疲れてるんだから、気をつけてよ」「ああ。適当にやるから大丈夫だ」(略)
  (撮影直後に永倉が倒れる)
  「……じゃ、準備運動もなしに始めたのですか?」
  「はい。私もウオーミングアップしなくていいんですか?ってお聞きしたんですけど。大丈夫、大丈夫っておっしゃって……」
 大バカ者! 思わず心の中で叫んでしまった≫作133『万治クン』p236


  1月 元日、今年が良い年であるように祈る。

  ≪二〇〇〇年一月一日
  ついに十年目の新年を迎えた。
  志木の家での新年会。今年が良い年でありますように。(略)
  (十年前に)書きだした日記帳が、あと少しで終わりになる。ミミズがのたくったような「ついに」の文字には、ようやくここまで来たという万感の思いと、次の十年への覚悟と期待がこめられているのだ≫(十年日記の最終年より)作133『万治クン』p202

  1月 元日、友人のハンス・ミューラーから電話が入る。

  ≪突然、電話が鳴った。(略)「もしもし……ええっ? ハンス?」。
  キッドのヨーロッパ公演でアムステルダムに滞在した時、居候させてもらった音響技師のハンス・ミューラーからの電話だった。(略)
  つっかえつっかえの英語で、それでも楽しそうにハンスと話をした。(略)
  「幸先がいいね。今年は良いことがいっぱいありそうだぜ」(略)
  永倉はお湯割りの焼酎で、私はお茶で、新しい年の始まりに祝杯をあげたのだった≫作133『万治クン』p204

  4月 新聞に連載小説「ぼろぼろ三銃士」の掲載を始める。

  ≪二〇〇〇年は、新聞小説に救われた。全国の地方新聞に小説やエッセイを配信している文藝事務所から、まったく突然という感じで小説を書かないかといわれた時は、これで今年は安泰だと胸を下ろしたものだ≫作133『万治クン』p212

  4月 20日に東由多加、食道がんのため死去。54歳。25日の告別式に参列する。

  ≪葬儀の日、若い劇団員たちが号泣しながら歌う中、永倉は背筋を伸ばしてじっと東さんの遺影を見つめていた。
  「東さん、俺はしぶとく長生きして、必ずいい小説を書いてみせます」
  彼の横顔がそういっているような気がしてならなかった≫作133『万治クン』p218
  ≪四月二十五日
   東由多加の葬儀に有子と出席する。
   東さんは幸福な一生だったと思う。
   息子があいさつした時、涙がこぼれた≫(永倉万治の日記より)作133『万治クン』p218

  5月 小説雑誌に新境地の暗い小説、「甘い水」を連載開始。

  ≪同じ年の五月に、もう一本、連載が始まっている。『みんなアフリカ』以来、『陽差しの関係』『黄金バット』など、節目節目の小説を担当してきた編集のTさんが、そろそろ永倉萬治の新境地を開きましょう、といって始まった『甘い水』という小説だ。新しく担当になったKさんという若い編集者が出したプランを大幅に取り入れて、いままでになく暗い色調を帯びた物語になる≫作133『万治クン』p215

  5月 友人の作家・戸井十月とオランダ行きを計画する。

  ≪「1年ぶりに本が出ました。『アルマジロの日々』というタイトルです。間もなく『人の気も知らないで』という本も出ます」。今夏は欧州旅行を予定中≫『小説現代』「今月登場」(2000年6月号)
  ≪数年前、NHKの『世界わが心の旅』という番組で、永倉がアムステルダムのハンスを訪ねるという企画が持ち上がったことがあった。最終的にボツになってしまい、彼はとても残念がっていた。パーティーの席で作家の戸井十月氏と会った時に、たまたま、その話が出たらしい。プロデュースもこなす戸井さんが、ぜひやろうじゃないかといってくれたのだ。(オランダ行きは都合が合わず、延び延びとなり、結局は実現しなかった)≫作133『万治クン』p216

  6月 キッド時代の友人・ペーター佐藤を偲ぶ「ペーター佐藤追悼 Friends展」に絵を出品する。

  ≪「結構、才能あるかもよ。この間の絵、すごく良かったもの」(と有子夫人が言う。)
  この間の絵とは、六月に開催された『ペーター佐藤と仲間たち』という展覧会に出した絵のことである。(略)
  (ペーター佐藤が、)四十八歳の若さで亡くなって六年。展覧会には彼と親交の会った著名人たちの絵が並んでいた。(略)
  夜空に浮かび上がる摩天楼をバックに自転車を引く男を描いた絵。(略)搬入の前日になってイトーヨーカ堂で買ってきたクレパスと絵の具でたった一枚だけ描いた、まさにビギナーズ・ラックみたいな作品だ。(略)
  めったに褒めない私が、珍しく褒めた≫作133『万治クン』p235
  ≪「イラストレーターのペーター佐藤を偲ぶ展覧会に絵を出品した。興味のある方は足をお運びください」。原宿のペーターズショップ&ギャラリーにて開催中≫『小説現代』「今月登場」(2000年7月号)

  夏  息子二人に「何をやるにも全力でやれ」と親の威厳を示す。

  ≪夏也がアルバイトをやめて突然東欧に行くと言い出した時の喜びようといったらなかった。(略)
  「一年は帰ってくるな」「俺だってそのつもりだよ」(略)
  ウソついたら針千本のーます……。大の男が指きりゲンマンをしていた≫作133『万治クン』p199
  ≪ある時、大学生になった龍男が(柔道をやめて目標をなくしたせいか)あまりにも遊び惚けているので、説教してほしいと永倉に頼んだことがあった。(略)
  (数日後、永倉は夫人にいう。)「遊ぶなら、今年一年、とことん遊べって。中途半端なのは許さないって、きっちり念を押しておいたからな」「はあ?」(略)
  指きりげんまんに、とことん遊べ。どちらも二〇〇〇年の夏のことである≫作133『万治クン』p200

  夏  志木の家の改築工事がはじまる。

  ≪脳溢血から十年以上、私たち家族を養うために突っ走ってきた永倉に、もうそろそろ、ゆっくりと時間をかけて、本当に書きたいものを書いてもらいたかった。それには志木に移り住むのがいちばんだと、私はそう思っていた。
  さいわい、彼の両親は私たちが隣に住むのを喜んで、全面的に協力してくれることになった。Nさんの占いも、志木は吉と出た。念には念をと永倉は易の本で確認し、ようやく志木へ移り住むことが決まったのである。改築工事の着工は二〇〇〇年の夏≫作133『万治クン』p211
  ≪二〇〇〇年、夏(略)風水で頭を悩ました(志木の)新居の設計図もようやく永倉のOKが出て、いよいよ工事が始まった≫作133『万治クン』p223

  7月 14日、友人・佐藤優からネット書店BOLのインタビューを受ける。

  ≪作家インタビュー 永倉萬治氏のおすすめ本たち
  追悼 永倉萬治さん 10月5日脳幹出血のため死去 享年52歳
  生前7月14日のBOL取材。元気なお姿でお受けいただいたものをそのまままとめました。生涯34冊もの作品を私たちに遺してくれ、そして彼は旅立ちました。残念ながら、私たちはもう永倉萬治さんの笑顔に会うことはできませんが、たくさんの作品の中で永倉さんにまた会えるのです。(略)永倉さん自らが、大切に選んでくれた本たちをご紹介します。(略)≫ネット「bol.com」(掲載は10月〜11月頃と思われる。現在削除)

  8月 14日から1週間、夫婦二人だけで嬬恋の山小屋生活をたのしむ。

  ≪このあたりで息抜きをしようと、八月の十四日から一週間、永倉と私は山小屋で過ごすことにした。(略)
  (散歩の帰り道を)ハッハッと息を弾ませながらひたすら歩いていくと、トウキビ畑の途切れた真っ正面に浅間山が姿を現すのだ。私たちはしばし立ち止まって、残照の中にくっきりとそびえ立つ雄大な山姿に見とれる。
  「ああ……いいなあ」いつも同じ場所で同じことを呟いた≫作133『万治クン』p223
  ≪「8月の後半は、もっぱら北軽井沢の別荘で妻と2人きりで過ごした。仕事以外、何もすることがないので毎日、1時間ほどウォーキングしていました」≫『小説現代』「今月登場」(2000年10月号)

  8月 30日、NHKテレビ「生活ほっとモーニング」に出演する。

  ≪1 NHKテレビ 8:35 生活ほっとモーニング ここまで私は回復した 早期リハビリ最新事情―驚異の回復に密着▽永倉萬治、小山明子≫『讀賣新聞』テレビ番組表(2000.8.30)とネット「NHKアーカイブス保存番組検索」より作成

  9月 15日、医学博士・塩谷信男の正心調息法の公演を聴く。

  ≪塩谷博士は現在百歳、いまでも月に一度はゴルフを楽しむほどの壮健な人だが、病気で死にかけた時に編み出した独自の呼吸法によって健康を取り戻し、これを正心調息法と名付けて、著書や講演で広めておられる。
  永倉は友人からこの呼吸法を教えてもらい、数年前から長生き作戦の中に取り入れていた。たまたま雑誌で講演があるのを知って、この際、正確なやり方を習おうと思い立ったのだった≫作133『万治クン』p231

  9月 15日、シドニーオリンピック始まる。14日間のテレビ漬け。

  ≪東京オリンピック以来の狂信的オリンピックファンである彼は、九月十五日を指折り数えて待っていたのだ。(略)
  9月 下旬、「マクベス」を観劇。

  ≪亡くなる一週間前も、主人と息子と友人の四人で『マクベス』の芝居を観に行って、帰りにファミリーレストランに寄ったら、もう食事もすませていたのに彼はスパゲッティ・ミートソースを頼んで、本当に嬉しそうに食べてるの(笑)≫『清流』(2001年2月号)p231

  この日から十四日間の日記を見ると、正心調息法をやったということと、あとはすべてオリンピックで埋め尽くされている。
 田村・野村両選手が金メダルをとる!オリンピックは楽しい(略)
 「今年のオリンピックは時差がなかったため、多くの人がリアルタイムで競技を観戦できたようです」
 アナウンサーの言葉に力強く頷く。「うん。俺も、全部見た」≫作133『万治クン』p231

 10月 3日に脳幹出血で再び倒れる。意識が戻ることなく、5日、永眠。
  (以下、『万治クン』ほかより、経過を記す。)

 10月 3日、午後8時過ぎ、『小説宝石』のグラビア写真用に、合気道の稽古風景の撮影に出かける。
         午後8時半、家から5、6分のところにある合気道の武道場前で待ち合わせ。
         胴着に着がえ、準備運動もせずに合気道稽古に入る。
         稽古風景の撮影をはじめる。
         「エイヤッ」とかまえをした時、脳幹出血のため倒れる。
         午後8時45分頃、救急車を要請。自宅に電話で一報が入る。
         ただちに、有子夫人と夏也が駆けつける。
         武道場の畳の上で白い胴着姿で両目を見開いたまま永倉が仰向けに横たわっている。
         夫人の呼びかけにも反応なし。
         意識不明のまま救急車で、国立埼玉病院(和光市)に入院。
         知らせを聞いた両親、妹夫婦、末妹の釉木淑乃、義兄らが駆けつける。
         CTスキャンを撮る。小脳と脳幹部にかなりの出血、予断を許さない状況。
         手術による回復の可能性はないという医師の判断。
         全身マヒで意識の戻らない植物状態を希望しないと苦渋の決断をする。
         自発呼吸が弱まったため、補助的に人工呼吸器を使用。
 10月 4日、夜が明け、夫人だけが残る。
         知らせを聞いた親戚、友人、編集者たちが駆けつける。
         午後、I さんが来て、オイルマッサージを施す。
         依然と意識不明はつづくが、家族の声に手足が反応する。
         小康状態が続く。
 10月 5日、釉木に看護を頼み、夫人と息子たちが一度家に戻る。
         途中で、龍男がいう。
          「前にお父さんが倒れた時、僕たちはまだ小さかったでしょ?
          神様が可哀想に思って、お父さんをこの世に戻してくれたんだ。
          この十一年間は神様のプレゼントだったんだよ。だから、もう十分だよ」
         帰宅後すぐに、容態が急変と病院から電話。
         体力が弱まり、血圧も次第に下がる。
         「ありがとう、愛してるよ」、「お父さーん、ありがとうよ」、「お父さん、また違う時代で会おうな」
         みんなの愛の言葉と笑顔に見送られながら、午後11時55分、永眠。享年52歳。

 10月 8日、午後1時より葬儀・告別式。朝霞市斎場にて。

  ≪通夜は7日午後6時から、葬儀・告別式は8日午後1時から埼玉県朝霞市溝沼1259の1、朝霞市斎場で。喪主は妻、有子(ゆうこ)さん≫『産経新聞』夕刊(2000.10.6)
  ≪通夜とそれに続く葬儀の日、小学校から大学までの同級生たち、同じ舞台にたった劇団むらさきやキッドの面々、作家・永倉万治を支えてくれた編集者、合気道で一緒に汗を流した人びと、毎日通った近所の喫茶店仲間、そして会ったこともない読者までもが、永倉の死を惜しみ、心から泣いてくださった。(略)
  両親は、これほど多くの人々に惜しまれるわが息子を改めて見直し、夏也と龍男は素晴らしい友を持った父親を誇りに思ったことだろう≫作133『万治クン』p258
  ≪お葬式の喪主の挨拶で、私はこんな話をしました。
  「彼が一度目に倒れる二週間ほど前、私はある夢を見ました。
  それは自分が喪主として『永倉はまだ書きたいものがあったのに本当に無念だったと思います』と泣きながら挨拶している夢でした。
  結局、十二年目にして、その夢は正夢になってしまいました。でも、今回は、無念だとは言いません。
  永倉は五二年間精一杯生きて、いろいろな経験をして、多くの人に愛されました。
  ですから、皆さんも『本当に良くやった。いい人生だったね。新しい旅立ちおめでとう』と声をかけてやってください」と≫『清流』(2001.2)

 12月 9日、西恵比寿の画廊で「永倉萬治さんを偲び、婦人を励ます会」が開かれる。

  ≪愛すべき友人、永倉萬治さんが合気道の稽古中に倒れ、10月5日に急逝してからはやいもので、1ヵ月半が経ちました。あまり急な旅立ちでゆっくりと故人を偲ぶ間もない出来事でした。(略)
  (永倉萬治さんを偲び、)有子さんの新しい旅立ちをはげまし、応援したいと思います。(略)
  永倉さんの30年来の友人下田逸郎さんが歌ってくれるとのことです。(略)ぜひお集まり下さい。
  日時:2000.12.9 午後7時〜9時、場所:アートカフェ・1107、連絡先:ゆりあプロジェクト 長井八美≫「永倉萬治さんを偲び長倉有子さんをはげます会のご案内」より
  ≪12月10日(日) 霊界通信?
  前夜(9日)東京・西恵比寿の画廊で開かれた「永倉萬治さんを偲び、夫人を励ます会」に出席した。
  ”脳卒中の星”永倉さんが亡くなって、もう二ヶ月も経った。
  会場には彼の立教大学時代の仲間、東京キッドブラザースの仲間、雑誌編集者が60人ほど集まった。
  脳卒中の患者仲間は僕一人だった≫ネット「編集長ヘッドライン日記」

 12月12日、テレビ朝日の「徹子の部屋」でその年に亡くなった人を回想する追悼番組を放送。
    1998年3月10日に出演の永倉の姿も放送される。

  ≪10 朝日テレビ 1:20 哲子追悼特集A青江三奈さん、滝沢修さんほか≫『讀賣新聞』テレビ番組表(2000.12.12)

【作品 年譜】

  1月     この階段をあがったら(『Recto』)(→未収録)

  2月     三月の恋(『小説宝石』)(→未収録)

  2月     勲男と里子(『小説すばる』)(→『あぁ…』)

  2月01日  (一期一会)練習とは不可能を可能にする(『朝日新聞』夕刊)(→未収録)

  4月     叔父さん(『小説新潮』)(→未収録)

  5月10日  単行本『アルマジロの日々』(幻冬社)

  5月25日  単行本『人の気も知らないで』(実業之日本社)

  7月     (恋愛の中のクルマ)女性にも性欲があるなんて(『NAVI』)(→未収録)

  7月     ルームメイト(『小説宝石』)(→未収録)

  9月30日  単行本『あぁ、結婚』(集英社)

 10月     『私の脳卒中体験』(『第3回 脳卒中市民シンポジウム講演録』日本脳卒中協会)(→未収録)

 【連載 作品】

 「アナタに似たひと」 『日経ヘルス』 (永倉萬治 写真・奈良岡忠)

   1月 22(→未収録)(未見)
   2月 23(→未収録)(未見)
   3月 24(→未収録)(未見)
   4月 25(→未収録)(未見)
   5月 26(→未収録)(未見)
   (この連載は2000.5号で終了。連載番号は○に数字。)

 「ぼろぼろ三銃士」 『北日本新聞』他 (永倉萬治 画・真鍋太郎)

   4月8日  1  同級生(一)(→『ぼろ…』)
     :    :   :
     :    :   :
  10月9日 181 疑 惑(十)(絶筆)(→『ぼろ…』)
   (この作品は「三友社」配信で北日本新聞、山陽新聞、山陰中央新報、北羽新報、長崎新聞、茨城新聞、岩手日報、山形新聞、宇部時報の各紙に4月から12月まで順次連載された。絶筆後、有子夫人によって書き継がれ、単行本として刊行されている。)

 「甘い水」 『小説現代』 (永倉萬治 画:井筒啓之)

   6月 新連載(→未収録)
   7月 第二回(→未収録)
   8月 第三回(→未収録)
   9月 第四回(→未収録)
  10月 第五回(絶筆)(→未収録)

 【参考 作品】

   1月     「十年日記の最終2000年1月1日」長倉恭一の日記(作133『万治クン』p202掲載)

   2月     (シネマの通人に聞く 私の愛した監督たち 名匠3人を選ぶ)永倉萬治
          @エリック・ロメール、Aフェデリコ・フェリーニ、Bピーター・グリーナウェイ(『マリ・クレール』)

   4月     新聞連載の「ぼろぼろ三銃士」開始にあたり、新聞に掲載(?)の永倉文(作133『万治クン』p212掲載)

   5月     (書評)『アルマジロの日々』永倉萬治 人生の閉塞と味わい描く傑作 杉江松恋(『星星峡』)(未見)

   6月     今月登場(『小説現代』)

   6月07日  (ブック&コミック 今週のイチ押しメニュー)アルマジロの日々 永倉萬治
          35歳に夢と希望をもたらす、躍動感あふれる自伝的実録小説(永江朗)(『SPA!』)

   6月18日  (書評)アルマジロの日々 永倉萬治 著
          雑多な人間群像そのままに 評論家 千駄木遊(『産経新聞』)

   6月30日  (第3回脳卒中市民シンポジウム紙上採録)『私の脳卒中体験』作家 永倉萬治氏
          生きている「目的」を見つけた(『朝日新聞』全面広告)

   7月     今月登場(『小説現代』)

   9月     シドニーオリンピック、テレビ観戦の日記(作133『万治クン』p232掲載)

  10月     今月登場(『小説現代』)

  10月06日  (訃報)Wrighter Nagakura dies at 52+(『共同通信』)

  10月06日  (訃報)「ラスト・ワルツ」 永倉萬治さん急死(『朝日新聞』夕刊)

  10月06日  (訃報)永倉万治氏(『産経新聞』夕刊)

  10月06日  (訃報)脳出血から再起し執筆 永倉万治さん死去(『東京新聞』夕刊 )

  10月06日  (訃報)永倉万治氏(『日本経済新聞』夕刊 )

  10月06日  (訃報)舞台から執筆活動に 永倉萬治さん52歳(『毎日新聞』夕刊 )

  10月06日  (訃報)永倉萬治氏(『読売新聞』夕刊 )

  10月07日  (訃報)作家・永倉万治氏が急死(『日刊ゲンダイ』)(6日発行)

  10月07日  (訃報)「アルマジロの日々」の作家 永倉万治氏が死去(『埼玉新聞』)

  10月07日  (訃報)軽妙なエッセー、小説で人気の作家 永倉万治氏死去 52歳脳幹出血(『スポーツニッポン』)

  10月08日  (追悼)永倉萬治の死を悼む 永江朗(HP「ホンとの話 第43回」)

  10月08日  (追悼)(無題) 萩原健太(HP「What's Up?−Oct.2000」)

  10月08日  (追悼)もう、永倉万治さんの本が読めないなんて。 松久淳(HP「週刊 松久淳」)

  10月10日  (追悼)(牧太郎のここだけの話)永倉萬治氏は「兄貴」だった(『毎日新聞』)

  10月12日  (追悼)追悼・兄永倉萬治 神様から贈られた明るさ 釉木淑乃(『東京新聞』夕刊)

  10月17日  (追悼)追悼・永倉万治 「永倉万治に、かぶれたことがある。」 広井美和(HP「カワセミ書房」)

  10月18日  (追悼)永倉萬治さんのこと 永井 明(HP「メディカル漂流記・アサヒコム」)

  10月23日  (追悼)惜別・作家永倉萬治さん 妻が支えた不屈の執筆 河合真帆(『朝日新聞』夕刊)

  10月29日  (追悼)(満月雑記帳)さよなら、永倉さん 中野 翠(『サンデー毎日』)

  10月29日  (追悼)追悼抄・作家永倉萬治さん 書きつづけた不屈の精神 村田雅幸(『讀賣新聞』)

  11月     (追悼)追悼 永倉萬治さん また会おう―盟友・永倉萬治への伝言― 戸井十月(『小説宝石』)

  11月     (追悼)2000年11月某日 松本侑子(HP「お出かけキモノ日記」)

  11月     (グラビア・スポーツが取り持つ縁)合気道 永倉萬治氏
          街の道場に通って一年。心暖かい仲間との稽古が楽しい(『小説宝石』)

  11月?    (追悼)作家インタビュー 永倉萬治氏のおすすめ本たち(ネット「bol.com」)

  11月03日  (追悼)(風速計)さよなら 落合恵子(『週刊 金曜日』)

  11月22日  (追悼)蓋棺録 病に倒れたあとも、「目的を持つことが大切」と書き続けた 永倉万治さん(『婦人公論』)

  12月     (追悼)蓋棺録 作家・永倉萬治 文藝春秋編集部(『文藝春秋』)

  12月     (グラビア)追悼 永倉萬治さん 心より御冥福をお祈り致します。(『小説現代』)

  12月06日  (追悼)(コトバノート)訃報 永倉さんの軽妙さに励まされる ドリアン・T・助川(『ダカーポ』)

  12月10日  (追悼)12月10日(日)霊界通信? 牧 太郎(HP「編集長ヘッドライン日記」)


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